「自我」と「我欲」
2月、立春を過ぎてからの日々は、濃い!気がする。前回の記事に書いたように、保留にしていたものもどんどんどんどん出てきちゃっているのが今、のせいなのか、先週はやたら泣けて泣けて、だった。なんでこんなに泣けるんだろう、と感じてみると、自分の思うとおりにはならない、という現実、「自我」との葛藤、かなあと感じる。
振り返ると、生まれて20年ぐらいは、「自我」というものをあまり意識することもなく生きていたように思う。私は、内省的で本が好きな子供で、小学校低学年まではおとなしかった。ずっとおとなしいと学校生活はつまらないと実感して、変わろう、と初めて意識したのは小学校4年生の時。班長にも初めて立候補して、その班での遠足でのオリエンテーリング、学年で一番になったのをとてもよく覚えている(笑)、嬉しかった体験だ。その後、小学校、中学校、高校と親の仕事の都合で済む場所が東京、仙台、福岡と変わりながら過ごした。言葉だけではなく、各地での文化圏のちょっとした違い、例えばここでは人々はこうするのがスタンダードだけど、場所が変わればまた違う、ということを肌で感じて、これが正しいということはないんだなあ、と実感していったように思う。
地方で一人暮らしをしていた大学を卒業して、社会人になってから、自分の内側にある生きずらさ、というほどではないにしても、「よるべのない」ような頼りなさを折々に感じるようになっていた。こう書いてみると、それは、「これが正しいということはない」という自分の思いと、若いせいもあるだろうが、自分への自信もないことも影響していたと思う。
当時出会った先生を通じて、自分が何を望んでいるのか、自分の気持ちは何と言っているのか、自分はどう生きたいのか、などなど、自分の生命エネルギーと向き合おう寄り添おうとし始めた。その先生との繋がりで、20代の後半からセラピートレーニングを受け始めて、ENNのテーマでもある「自分を知る、自分を生きる、自分を愛する」プロセスの、まずは「自分を知る」ことを意識的に、集中的に始めた。30代では、結婚、出産(3児とも)をして、家庭、育児、という新しい環境の中で、自分を知りながら、どんな感情にも優劣はないと思いながら、模索してきた日々だった。「自分が今何を感じているか」それが私の常に変わらないテーマで、自分自身に誠実でいること、が他者にできる最大限の優しさでもあると思っていたから、うまくできたりできなかったりだったけれど、「今の自分がどう感じているか」というものを常に意識していた。そうやって、いつのまにか自分の「自我」と呼ぶべきなのか、元々あった自分自身が浮き上がってきた、ような感覚がある。
この半年は、「ありのままに受け入れる」ことの難しさを実感、どうしても「自我」が邪魔して、自分の思いの葛藤が入ってしまう、「あーどうしたらこのうじゃうじゃを取り除けるのだろう!!!」と思っていたら、フトこぼれてきた言葉は「我欲」だった。
なーんだ、「自我」ではなく、「我欲=こうあってほしい、という私の思い」があって苦しかったんだ、と納得。文章まとまりないですが、ひとまず一歩。
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